「死はネガティブに捉えられることが多い。でもそうは思わない」
高校生ここみの一言から死についての考察が始まる。
誰もが死を目の当たりにしたことがあるのではないでしょうか。
家族、親戚、友人、恩師…。
そして、自分自身も「死にたい」と思った経験がある方もいるのではないでしょうか。
ここみは言いました。
「一度、マンションのフェンスに手をかけて下を見た時に時に今、飛び降りたら楽になるのかなと体を乗り上げたら、怖いと思った」
いつきは言いました。
「自分が死んだら、自分は楽になるかもしれない。でも親は悲しむ。そして、自分をいじめた側は罪悪感に苛まれ、自分の親からの責めを受け続ける負の連鎖が延々と続くかもしれない」
二人はいじめを受け、自分の存在がその場所にいるのにいない体験から思ったそうです。
死を考え、引き止めたのは自分自身であり、他者の存在でした。
生きていれば、自分ではどうすることもできない容姿や性格、自分のしている活動などのことで理不尽に否定や批判を受けることがあります。これから長く生きていけば多くの困難に立ち向かわなければならない。その時にどうやって生きていけるのだろうか。
「人の言葉にフォーカスを置くのではなくその言葉の意味を考えていきたい」
「いとこに気づかせてもらった楽しいこと。その楽しいことをやり続けたい」
人を愛すること
自分を愛することは
他者の存在があって感じるのではないでしょうか。
イベントの中でいつきが言った言葉は
「人間一人では生きていけない。誰かに愛してもらわなければ生きていけないからこそ人を愛するのではないか」
今回のイベントでは高校生2人が自分の体験から、「死」「生」「愛」を語り合いました。
イベントは前半と後半で2時間に及びました。
後記 byやすだ
正解のないテーマではそれぞれが自分の考えを述べていきます。
そこには大人も子どももありません。私が今回、語り合った子たちの年頃の時にもいじめはありました。ただ、その時とは明らかに状況は変わってきています。
ネット社会
親のあり方
学校のあり方
カタチを変えて、いつの世もいじめの問題は続いていきます。
何よりも辛いのは自分は確かにここにいるのに、ここに存在しないと感じさせられることなのではないでしょうか。
人は支え合い、助け合いながら生きています。
小さなうちからそのことに気づいて欲しい。
それが私たち<にじプレ>の活動でもあります。
今回、小学生時代から<にじプレ>に通う子の提案でこのイベントを開催できたことを嬉しく思います。この子たちと重ねた打ち合わせの中ではこのイベントの中ではでなかった話もあります。
子どもたちからたくさんのことを学んでいます。心からありがとう。
このイベントの動画配信に関心がある方はご連絡ください。